天武天皇即位前紀
(2)壬申の乱と大伴氏

   天智天皇は663年、白村江の戦いで三万の倭軍が唐と新羅連合に敗北したことで人臣の信望を損ねる。また、天智六年(667年)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都したことで、さらに人臣に不満を覚えさせる。他方、大海人は朝廷で実力を付けシンパを増やしていく。天智天皇が失踪(あるいは病没)後、大海人は、天智天皇の皇子大友に対して乱を興す。壬申の乱である。朝廷軍との戦いを繰りひろげ、倭京(飛鳥)と近江で朝廷軍を撃破り、乱に勝利する。672年七月であった。そして、673年に天武天皇として飛鳥浄御原宮で即位し、天智天皇の娘の鸕野讚良皇女を皇后とする。

   この壬申の乱における大海人の行動を見てみよう。挙兵前、剃髪し沙門になり、仏門に入るとして、鸕野讚良皇女とともに吉野に逃れる。大日寺あるいは聖徳太子縁の比曽寺(現在の世尊寺)に大海人が籠ったという説がある。吉野の豪族(石押分之子=吉野国巣の祖)は、大海人の遠祖の磐余彦の東征の際に臣従していた。吉野町南国栖(くず)の村人は大海人を朝廷軍から護り、また、舞などで慰めたとも伝わる(Web)。それに由来する国栖奏が毎年旧正月十四日、天武天皇を祭神とする浄見原神社(吉野町南国栖)で行われている。その後、大友皇子の近江朝廷が、殺害を策謀しているとの報を受けた大海人は、草壁皇子、忍壁皇子および舎人の朴井連雄君(物部雄君)・大伴連友国ら二十人余り、侍女たち十人余りとともに吉野を脱出する。その際、大分君恵尺(おおきだのきみゑさか)を近江に遣わし、御子の高市皇子と大津皇子に伊勢で会うように伝言させる。天武元年六月二十四日早朝であった。そして、吉野から津振川を経て菟田の安騎で大伴連馬来田らが合流する。この時、大伴氏は、大海人を担ぎ、大海人の王朝を興して、朝堂の重臣になることを策謀したのだ。馬来田(まぐた)は、倭古京(飛鳥の都)の決起を弟の吹負(ふけい)に任せて、自身は大海人を護ろうとした。甘羅村(かむらのむら)を過ぎた時、大伴朴本連大国を首領とする二十人の猟人を召す(大国も大伴の一族であった)。大野(旧室生村)から隠郡(名張市)を夜中行軍し、伊賀郡に到る。この夜中行軍は、大友皇子の母宅子娘(やかこのいらつめ)の出身地(旧三重県阿山郡大山田村?)である伊賀采女の里人の襲来を畏れてのこととする説がある。采女は身分が低く、大友皇子の母といえども、その里を近江朝廷の軍衆が警護していたとは思えない。道を急いだための夜中行軍であったのであろう。伊賀郡中山で、数百の軍勢を率いた伊賀郡司が参軍する。積殖(つむえ、伊賀国拓殖)の山口まで来たとき、大津京を出奔し、鹿深(甲賀市)を越えてきた高市皇子に同行して八人の舎人が合流する。そして大山(鈴鹿山脈)を越えて(加太峠越えか?)伊勢の国の鈴鹿郡(三重県亀山市関町)に入り、伊勢国司の出迎えを受ける。そこで大海人は、彼らに五百人の軍勢を集めさせて、鈴鹿の山道の守りを固めさせた。川曲(鈴鹿市)の坂下に到り、疲れの激しい鵜野讃良皇女のため、しばらく御輿を留めて休憩する。その後に雨中行軍し、三重郡家に到って、民家を一軒燃やして暖をとる。翌朝(二十六日)、伊勢の朝明郡の迹太川(とおかわ、現在の朝明川)のほとりに至り、天照大神を遙拝して、戦勝を祈願する。朝明郡では、同じく大津京を出奔し、鈴鹿の関を越えてきた大津皇子が大分君恵尺・大分君稚臣(わかみ)等とともに合流する。また、美濃に派遣していた村国連男依が、美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさいだとする報告を受ける(不破道は鈴鹿道とともに交通の要所で、ここを抑えることで大津の都と東国とを遮断することができ戦略的な意義は大きい)。郡家で、高市皇子を不破に派遣して軍の監督をするように命じた。また東海道諸国や甲斐・信濃の軍兵を徴集させる。さらに桑名の郡家に向かい、そこに鵜野讃良皇女ら家族を残留させ、自らは和蹔(わざみ)の不破郡家(岐阜県不破郡垂井町)に入る(二十七日)。その途中、尾張国司小子部連鉗鉤(ちいさこべのむらじさひち)が尾張で徴発した二万の兵を率いて帰属してきた。大海人は不破郡家から野上へ移り、行宮を設けて東国から参集した全軍の指揮をとる。『続日本紀』は、尾張大隅は大海人を養育した大海氏の同族であり、私邸を行宮として提供したと記す。

   他方、近江朝廷では、大海人軍が東国入りしたこと聞いた群臣は怯え、逃走する者も現れる。大友皇子は「騎馬軍を組織して撃って出る」との進言には賛同せず、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)・書直薬(ふみのあたいくすり)・忍坂直大麿侶(おしさかのあたいおおまろ)の三名を募兵のために東国に向かわした。しかし、不破に至るまでに大海人の伏兵に襲われ、逃げ帰る。また、穂積臣百足(ももたり)・穂積臣五百枝(いおえ)の兄弟および物部首日向を倭古京に派遣する。五年前にあった近江遷都で廷臣たちは居を大津に移したが、彼らの多くは倭古京に一族や親族を残したままである。募兵に当たるとともに、小墾田(おわりだ、雷丘付近)の武器庫の武器を大津宮に運搬しようとしたのだ。そこに大伴連吹負が数十騎を率いて出撃し、奇襲攻撃で百足を斬り殺し、五百枝と日向は捕らえられる。吹負の奇襲攻撃により大和の豪族たちが続々と大海人軍への参軍を申し入れ、倭古京は大海人軍の手に落ちたのであった(二十九日)。倭古京を反乱軍に占拠されて、近江朝廷は打撃を受けた。大海人軍が東国から近江大津宮へ進軍すれば近江朝廷側は二方面作戦を展開せざるを得なくなったのだ。    吹負の倭古京占拠を機に、大海人は全軍に進撃命令を出した。村国連男依(おより)と書首根麻呂らは数万の兵を率いて不破から琵琶湖東岸をまっすぐ近江に向かった。また、紀臣阿閉麻呂(きおみのあへまろ)らが率いる数万の軍勢は大山越えで、大和に向かった(七月二日)。近江朝廷側は倭古京奪回軍を組織し、将軍大野君果安(はたやす)は乃楽山(ならやま、奈良県北部)で、将軍吹負の軍と戦い吹負軍を敗走させる。しかし、倭古京を守る荒田尾直赤麻呂らの奇計により、果安は京に進軍することなく兵を引く(四日)。

   他方、琵琶湖方面に向かった村国連男依の軍は息長の横河で境部連薬が指揮する近江朝廷軍と遭遇し、これを一蹴する。さらに安河(野洲川)で朝廷軍を撃破した。瀬田(滋賀県瀬田町)に進軍して瀬田橋の東側に布陣し、大友皇子が率いる近江朝廷軍と対決する。大分君稚臣が奇計を案じて瀬田橋を渡り、朝廷軍を大破する(七〜二十二日)。その間、敗走した将軍吹負は、墨坂(奈良県榛原町)で大海人軍の置始連兎に遭遇し、散った兵士を集め直し、大坂道から侵攻する猛将壱岐史韓国(いきのふひとからくに)麾下の近江朝廷軍と当麻村で戦い、韓国を遁走させる。倭京に戻ると、紀臣阿閉麻呂を東道将軍とする数万の軍勢が集結していた。将軍吹負は、三軍に分け、大和の上道、中道、下道に配置した。中道に布陣した将軍吹負は、近江朝廷軍の盧井鯨(いほいのくぎら)の急襲をうけて苦戦する。三輪君高市麻呂と置始連兎の軍勢は、上道に進軍した近江朝廷軍を箸墓のほとりでこれを大破し、中道の盧井鯨の背後を突く。敗戦した鯨は遁走する。これ以上、近江朝廷軍の襲撃はなかった(八日)。

   七月二十三日、大友皇子とすれば、再起を期して他の土地に逃亡することを考えたであろう。だが、東国へ逃れるいずれの道も大海人軍に押さえられていた。北国に逃れるにも、敵側に寝返った羽田矢国・大人の軍勢が三尾城を落として南下してきていた。南の倭古京方面も大海人軍に占領されていた。西国に逃れるにも、淀川河畔も大海人軍が集結しつつあった。すでに、逃亡の道は完全に遮断されていた。大友皇子は粟津丘に近い山前(やまさき)に身を隠していた。すでに左右大臣や群臣達は皆逃散し、皇子に従ったのは物部連麻呂(もののべのむらじまろ)と一、二の舎人だけであった。もはや逃亡もままならないと悟った皇子は、その場で自害(自縊)して果てた。数え年で二十五歳の若さであった。山前がどの付近の土地だったかはっきりしていない。三井寺前の長等山(ながらやま)ではないかと考えられている。
   以上のようにして、大海人の興した乱は、大海人の大勝利にて終わるのである。