飛鳥浄御原宮での天武天皇
(1)草薙剣窃盗事件

   天武二年、飛鳥浄御原宮で天皇に即位する。天武天皇の政治については、『紀』に詳しいので、省略する。ここでは、草薙剣窃盗事件、伊勢神宮の社殿創建と式年遷宮、『古事記』・『日本書紀』編纂について述べる。

   天武十五年、五月十七日、天皇が重態になり、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。六月十日、天皇の病を占い、草薙剣の祟りであると出る。草薙剣を熱田社に送り還して安置する。これに先立つ天智七年(668年)、大唐新羅国沙門道行(どうぎょう)が、熱田社に奉安されていた草薙剣を盗んで、新羅に逃げようとしたが、途中風雨にあって道に迷い、舞い戻ったところを捕らえられる。『紀』が草薙剣盗難事件について記すのはこの二つだけである。天智七年は、新羅と唐の連合軍が百済を滅ぼした直後であり、草薙剣の由緒を知った新羅僧の道行が、草薙剣を盗み出して新羅に持ち込み、呪詛して日本の弱体化を狙ったのであろうか。その後、草薙剣は宮中に保管されていたようである。草薙剣は、天智天皇の大津京遷都(天智六年)とその後の壬申の乱の混乱の中、倭京の宮中に留め置かれ、存在が忘却されたのであろう。ようやく、天武十五年に至り、天武天皇が重病になった際、奉祭されずに放置された草薙剣を案じた舎人により、祟り話が興され、結果として熱田神宮に戻されたとしたい。いずれにしても、天智天皇も天武天皇も、草薙剣を神剣として崇めていたようには窺えない。宮中には、天照大神の形代の他、崇神天皇が作らせた護身の横刀および八尺瓊勾玉が御璽(ぎょじ)として奉安されていたからである。
   草薙剣を盗み出したとされる道行を開祖とする薬王山法海寺が知多にある。その『法海寺縁起』と『尾張名所図会』の他、『尾張国熱田太神宮縁起』、『朱鳥官符』、『熱田太神宮秘密百録』、『八剣大神奉斎の御由緒』などなどが諸説を載せている(Web)。