壬申の乱の後始末(5)論功行賞

   七月二十六日、大海人軍は大友皇子の首級を捧げて不破の野上行宮に凱旋する。その前の二十三日、逃げ場を失った大友皇子は自縊するが、最後までつき従ったのは、物部連麻呂と一、二の舎人であった。物部連麻呂は、自決した大友皇子の首級を布に巻き、しっかりと腕に抱きながら、将軍達の前に姿を現した。将軍達は首実検をして大友皇子の首級に間違いないことを確認した。他方、逃亡した近江朝廷の左右大臣、その他の罪人たちの探索と逮捕が行われ、左大臣・蘇我臣赤兄父子や右大臣・中臣連金父子、大納言・巨勢臣比等(こせのおみひと)、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)の子、その他の重罪人八人が逮捕された。
   八月二十五日、高市皇子により。戦犯の処罰が行われた。二十七日には乱の功労者の論功行賞が行われた。その時、近江朝廷側の群臣の中で、一人、罪を免れた者があった。それが、物部連麻呂である。麻呂が大友皇子の舎人となって近従し、最期の自決の瞬間まで行動を共にしたのは、傍流とはいえ、歴代の邪馬台国王統に臣従してきた物部氏族の血脈故であったのであろう。その舎人にすぎなかった麻呂は不思議な運命をたどるのである。何故か大友皇子の最期を見届けた忠節が評価され続け、位人臣を極めるのだ。天武天皇の御代に物部から石上(いそのかみ)に改姓し、八色の姓(やくさのかばね)では第二位の朝臣を賜り、慶雲元年(704)に右大臣、和銅元年(708)年には左大臣となって天皇を補佐し続けるのである。後に石上朝臣麻呂(いそのかみのあそんまろ)と名乗る。後年、和銅三年三月(710年)に都が平城京に遷都すると、左大臣石川麻呂は藤原京に管理者として残留させられることになる。事実上の置いてきぼりである。平安京の朝堂では、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になる。

   九月、大海人は、不破から伊勢の桑名、鈴鹿、伊賀、名張で宿泊を重ね、倭京に還り、飛鳥浄御原宮を建てて宮居する。壬申の乱の功労者に叙勲が行われた。大伴馬来田と大伴吹負は乱で多大の功績があったので、多大な恩賞があってもおかしくはないのであるが、なぜか、『紀』にその記述は無い。ただし死後に叙勲があった。大伴馬来田(望多)は天武十二年(683年)六月三日に死んだ時、天皇は、泊瀬王を遣わして弔問し、壬申の乱での望多の勲と、大伴氏の先祖が代々果たした功を述べさせ、大紫の位を贈り、鼓吹して葬った。また、大伴吹負は、乱での功績により常道頭(常陸国の守)を務めた(『続日本紀』)。八月五日に死んだ時、大錦中の位を授かり、顕彰された。そして、天武十三年(684年)、八色の姓制定で大伴氏は宿禰を賜わる。天武天皇は生前の二人をあまり厚遇した様にみえない。

   功臣の大分君恵尺と大分君稚臣について述べる。天武天皇は、恵尺、稚臣二人の大分君の功績に報いた。天武四年(675年)大分君恵尺は病に臥す。日本書紀天武四年六月条は記す、
   「汝恵尺、私心を捨てて公に向きて、身命を惜しまず。遂雄しき心を以て、大きな役に労れり。常に慈愛せむと欲へり。故、汝が死すとも、子孫を厚く賞せむ。」として、外小紫位という律令制度三位に相当する高い官位を賜り、顕彰された。恵尺は間もなく病死する。また、大分君稚臣も天武八年死す。天皇は稚臣にも、壬申の乱のにおける瀬田の戦いでの先陣働きの功績に対し外小錦上位の官位を賜る。大分君に勲功が厚いのは、天武天皇のまさに祖につながる皇別故であろう。