壬申の乱の後始末(3)大海人の遁甲と隠密

   壱岐史韓国麾下の近江朝廷軍は、大和・河内国境の諸道を守備していた倭古京防衛軍を次々と撃破し、大和に進軍してきた。この壱岐史韓国軍が大坂より来ることを予言した男がいた。高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)である。この男は、三日前から口をきくことができなくなっていたのだが、当日の朝、許梅はまるで神憑りしたように突然しゃべりだし、「吾は高市社にいる事代主神である。また身狭社(むさのやしろ)にいる生霊神である。」、「神日本磐余彦天皇の陵に馬と種々の兵器を奉れ。」、「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後を守って無事不破に送り奉りて還る。今もまた官軍の中に立ちて守護まつる。」、さらに、「西道から軍衆至らむとす。警戒せよ。」と言って醒めたのである。それで、許梅を遣わして神武天皇陵に馬と種々の兵器を奉った。すると、言葉通り、韓国が大坂より来た。また、神官に村屋神が憑依して、「吾が社の中道より軍衆至らむ。社の中道を塞ぐべし。」といった。神託通り、二、三日して盧井造鯨軍が中道より到った。吹負の倭古京守備軍は、これらの近江朝廷軍を撃破るのである。許梅と神官の神憑かりは何を意味するのか? 私は、「神憑かりは芝居である」と説いてきた。彼等は大海人子飼いの間諜(隠密、忍、密偵)であったとしたい。大海人は遁甲を能くした。おそらく遁甲のなかの「天遁・地遁・人遁」を学んだのであろう。人遁には貴遁(身分の高い人を利用)、賎遁(身分の低い人を利用)などがあり、大海人は間諜集団を育てたのである。『紀』で一度だけ名前が挙る舎人達であろう。許梅と神官は、間諜である故に密偵を公然できないので、近くの神社の祭神を利用して神憑かりを演じ、密偵で得た近江朝廷軍の動静を自軍に伝えたのである。許梅が言った、日本磐余彦天皇、つまり神武天皇であるが、本来ならば「日本磐余彦尊」であろう(「天皇」の称号は『紀』編纂時の改変であるとしたい)。日本磐余彦尊は、猿女君の「誦」から大海人が覚え、その話を子飼いの間諜に教えていたのだ。許梅は賢明にも、その名前を使って、誓約(うけい)を行うことで、戦勝できると、自軍の兵士を鼓舞したのだ。それでは、その戦場となった金綱井(橿原市今井町に比定されている)に神武天皇陵があったかどうかは、奉拝した許梅だけが知っている。また、神憑かりした許梅は、「吾は大海人皇子の前後を守って無事不破に送り奉りて還る。」とも言っている。「大海人の吉野脱出から不破までの道行きには神のご加護があった」と言うのだ。確かに大海人の吉野脱出から伊勢の桑名郡に至る行動が、あまりも手際がよすぎる。当時いかに駅鈴制(大化二年、孝徳天皇によって発せられた改新の詔による、駅馬・伝馬の制度)が整備されていたとしても、迅速すぎるのだ。許梅の発言の意味は、「伊勢国の道を理解していた間諜が、全ての道案内をした」ということであろう。勿論、高市皇子と大津皇子の大津京脱出からと伊勢までの案内も間諜が行ったのだ。