十五代応神天皇
(6)治世

    再度論議しなくてはならないのが、応神天皇の年齢である。391年に胎中天皇として生まれたとすると、425年で三十五歳になり、この年は応神三十七年とほぼ同じになる。であるならば、この事蹟は胎中天皇の年号と見なければならなくなる。『記紀』で、応神を胎中天皇とし、神功皇后摂政を加えたうえに、年齢を高齢に拡大したために、事蹟の混乱が生じたと、私は考える。『宋書』倭国伝では430年に、倭王の使者が劉宋に朝貢している。その後、438年「これより先、倭王讃没し、弟珍立つ」とある。応神天皇が崩御してから仁徳天皇即位まで三年の空位があるので、438年の遣使は、応神天皇の崩御により、仁徳天皇を「使持節 都督倭 百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭国王」とする正式の叙爵を求めるのが目的であったといえる。それ故、430年の朝貢は「応神天皇崩御」を伝達するためと判断できる。また、仁徳天皇即位まで空位であったため、この朝貢を行わせた倭王の名前は明記されていないのである。このことから、応神天皇の崩御年を430年とすれば、享年四十一歳で、応神四十一年の天皇崩御の記事と年代が一致する。応神天皇崩御から陵墓に葬るまでの期間の記述はない。仁徳天皇陵につぐ大きさの墳墓築造にどのくらいの年数が費やされたのであろうか。

    以上、応神天皇に関して、同年代の劉宋の史書を参考にして『記紀』の事蹟を考察すれば、その存在は確実である。ただし、胎中天皇としての事蹟年代と応神天皇としての事蹟年代を見極める必要はある。

    これまで、崇神天皇から応神天皇までの在位年数を概算してきたが、当然のことながら在位年数は各天皇で異なることは明らかである。色々な史料を検討し、個々の天皇の事蹟と在位年数を割り出すことが、歴史を理解する上で重要であることは言うまでもないであろう。