十二代景行天皇
(3)倭建と草薙剣

   ついで、倭建は東国の蝦夷征討に向かう。途中、伊勢神宮に立ち寄って斎王の倭姫から「天叢雲剣」と火打石の入った嚢をもらう。その後、尾張国に寄り尾張国造の家にはいる。そこで宮簀媛に会うが、婚(まぐわい)は帰路にすることにして、婚約だけをして、東国に向かう。駿河国に至った時、珠流河国造に謀られて野原に鹿狩りに出かける。珠流河国造は野に火を放って倭建を焼き殺そうとするが、倭建は「天叢雲剣」で自分のまわりの草を薙ぎ、火打石で迎え火を放って難を脱し、逆に賊どもを焼き殺す。ここで、「天叢雲剣」で草を薙いだ事から、剣は「草薙剣」と呼ばれる様になるのである。

   相模まで進んで上総向かい海を渡ろうとした時、「こんな小さい海、走り幅跳びで渡れる」と大口をたたく。これが海神を怒らしたようで、浦賀水道を船で渡る時に暴風(海神のしわざ)に襲われる。この時、同行していた弟橘媛が倭建の身代わりになって人身御供として入水する。姫の海神への慰撫が功を奏したのか、暴風がおさまり船は無事に対岸に着岸できた。弟橘媛はどこから同行したか分からないが、河内の羽曳野で倭建と出会ったとする説がある。その弟橘媛は、饒速日の子の宇摩志麻治を遠祖とする穂積臣の祖、穂積忍山宿禰の娘であった。つまり、弟橘媛はバリバリの邪馬台国後裔なのだ。弟橘媛は、倭建と同行の旅をすることで、倭建を討つ機会を狙っていたのだ。しかし、暴風に襲われた時「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」(相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった わが夫の君よ)と歌って入水した。このことからわかるように、珠流河国造の謀略で火攻めにあった時、倭建が弟橘媛の安否を気遣ってくれたことで、媛は雄々しくて容貌魁偉の倭建をすっかり愛してしまったのだ。それで、倭建の危機に際して自身を犠牲にしてしまったのである。ここに、狗奴国出身の倭建を討つ計略はまたしても頓挫した。弟橘媛の「橘」は田道間守が常世からもってきた「橘」にちなんだものであろうか? 話は遡るが、駿河国造(珠流河国造)も物部連後裔の片堅石(かたがたし)であった。倭建の焼き討ちを企てたのは物部氏族であったのだ。

   倭建一行は上総から陸奥国に入り日高見国(北上川下流域)の蝦夷の酋長を捕虜にして蝦夷を平定する。さらに常陸を経て甲斐国に至る。陸奥国で蝦夷を平定した。過去に崇神天皇が四道将軍の一人建沼河別(武渟川別)を派遣して陸奥国の蝦夷を平定したのは東北の砂金を献上させるためと考えられる。それが、反抗して上納しなくなったのであろう。そこで、倭建を派遣した。蝦夷に砂金上納を再開させるためとおもわれる。東北は寒冷であり、蝦夷を討って領地を広げる意味が無い。また、帰路に甲斐国に至ったのも探金が目的であったのであろう。往時、基盤が不安定であった大和王権には豊富な財源が必要であった。

   その後、倭建一行は科野国を越えて尾張国に還り着く。倭建は、かねてより婚約していた宮簀媛(美夜受姫)のもとに至る。倭建が東国に赴く前にも宮簀媛を見初めたが、そのときは婚あっていない。一説によると、倭建が尾張国造の乎止与(おとよ、宮簀媛の父)を初めて訪れた時、川で布を晒していた姫は、倭建を無視したとある。姫はまだ男に興味の無い子供だったのである。だから、姫を見初めた倭建は婚約だけをして東国に向かったのである。ただし、尾張国に弟橘媛が同行していたかどうかの記述はどこにも見当たらない。その後、倭建が東国から戻って、姫の許を訪れた際には、姫は初潮を迎えた。それで、姫は初めての経血を経験した夜、倭建と媾あった。経血の日に媾あったのは、倭建の児を妊娠したく無かったためであろうと私は思う。そして、倭建は、姫の許にしばらく滞在したあと、大事な草薙剣を姫に預けたまま、伊吹山の荒ぶる神の討伐にむかう(図5)。

伊吹山山頂の日本武尊の像
図5. 伊吹山山頂の日本武尊の像
胆吹山(伊吹山)の神が白蛇(白猪)となって現れる。倭建はまた、大口をたたく「この大蛇は荒ぶる神の使いであろう。主神を殺せば、使いの者など帰りに殺せばよい」。無視された山神は、大氷雨を降らせて倭建を山中で彷徨させる。ようやく下山した倭建は麓の清水を飲んで、一息つくが、すでに病身になっていることを覚える。病身の倭建は大和に還ろうとするが、途中、体が三重に折れ曲がるほどに苦しみ(三重の由来)、能褒野(三重県亀山市)で絶命する。

   この話では、倭建は伊吹山の大氷雨にうたれた結果、病気になる。季節は晩秋であろうか。私も、鬼女蘭を食草とするアサギマラダなどの蝶採取に、伊吹山にドライブにでかけるが、確かに天候が変わりやすい山である。夏でも雨になると日本海からの風が冷たく肌を刺す。しかしながら、倭建は「学ばない英雄」である。走水(浦賀水道)で「渡り神=海神」を小馬鹿にする大口をたたいた所為で愛妃の弟橘媛を失う。信濃の山中では、山神の白鹿をからかって道に迷わされる。そして伊吹山では山神の白蛇(白猪)を見下して、大氷雨攻めに会う。倭建は、いかに英雄といえども、あまりにも神を軽んじている。『記紀』では、倭建の罹病死は神の祟りとしているようにみえる。

   しかし、伊吹山での大氷雨を受けた後の致命的な障害は寒冷による障害には見えない。伊吹山麓は薬草栽培で有名である。また、伊吹山には猛毒のイブキトリカブト、キジョラン、ガガイモが自生する。おそらく、倭建は、イブキトリカブトやその他の毒草の毒を飲まされていたのだ。伊吹山に大蛇など棲息しない。山道を塞ぐ倒木が大蛇に見えたのであろう。幻覚症状がでている。大氷雨攻に遭って山中を彷徨したのは、猛烈な悪寒に襲われ、意識が朦朧として彷徨したのだ。そして最後には中毒症状が悪化し、腰、膝、足首を折り曲げるほどに苦しんだ(激烈な腹痛の症状)のち、絶命したのだ。では、誰が毒を盛ったのか? それよりも、倭建は、なぜ大切な草薙剣を宮簀媛に預けたまま、伊吹山に向かったのであろうか? 宮簀媛は処女を倭建に捧げたかわりに草薙剣を入手し、剣を置かせて、素手の倭建を伊吹山に向かわせたのである。もちろん伊吹山の豪族に倭建を毒殺させるためである。なぜ、私はこうしたおどろおどろしい事を考えるのか? それは、姫は尾張国造の乎止与の娘であり、乎止与は饒速日が豊前で天道日女と結婚してなした天香語山の後裔である。天香語山とその子孫は大和の高尾張邑(後の葛城邑)に入り地元の媛と通婚し、尾張氏を興していたのだ。その尾張氏が、現在の愛知県に移住していたのだ(それ故、尾張国と呼ばれる)。つまり、尾張国造は邪馬台国の台与の直系の子孫なのである。このようにして、邪馬台国の末裔の乎止与と美夜受姫親子は、天照大神が次男の天穂日にさずけた出雲の神宝である草薙剣(天叢雲剣)を奪還し、武力に秀でた倭建を葬り去ったのである。美夜受姫親子は草薙剣を熱田神宮に祭った。実際は、草薙剣を御神体として祭った祠が熱田神宮になったというのが正しいであろう。

   倭建は、崇神天皇の曾孫であり、狗奴国人である。大和で崇神天皇に帰順し、三輪王権のもとで復権を企んでいた邪馬台国後裔は、あまりにも武勇に秀でた倭建を恐れていた。倭建を密かに倒すために、美夜受姫は、処女と引き換えに倭建の一番の武器である草薙剣をとりあげ、そして毒殺したのである。
   死後、倭建は白鳥と成って大和に帰る。倭建の東征に付き従ったのが吉備武彦で、都に帰り、倭建の死を天皇と妃の吉備穴戸武媛に奏上した。妃は、吉備武彦の娘である。この倭建の死はまるで叙事詩のごとく著されている。不幸な死を賜った人物ほど、美麗に物語られる。これは日本人の心情である。